そろそろ10年が過ぎ・報道より

マスコミ業界にとある伝説がある。
私がそれを耳にしたのは、現場を踏んでいた頃だから、もうひと昔ほど前か。

 

 

東京・吉原は由緒ある色街で、

今も簡素化された業態の、通称・ソープランドが多く軒を連ねている。

ひしめくそのネオンの海のなかに、一軒の老舗があった。

華々しい宣伝をするでもなく花形の遊女がかしこまっているわけでもない。

それでもそこそこの繁盛振りを見せているという。

 

大通りから暗闇をすかして見れば、露地奥にひっそりと地下置きの行灯が燈る。

日中から商いのようだが、

日の高いうちはたまに埃払いの打ち水を施す黒服の男が出入りするくらい。

だが、夕刻になるとそこに大型のワゴン車や1ボックスが止り、

客らしき幾人かの影を落として行く。

そのなかに、よくよく目を凝らせばなにやら独特な陰影が見え隠れしている。

椅子に座ったままの影、誰かに支えられ抱きかかえられている影。

店内からは黒服のみならず遊女たちらしき撫で肩の人影も手伝いに出、

その影を手早く、だが丁重に取り込んで行く。

ふだん他人眼を避けて暮している体の自由が利かない者や心の育ちきれなかった者たちが、

ここで溜まり水のような性の業を拭っていくのだろう。

 

それに気づいたひとりの若い新聞記者がいた。

記者は直感した。美談だ。そして「記事になる」とも・・・。

『遊女たちのなかに、家族にそうした者を持つ女性がいるのか?
 それとも経営者にか・・・??』

記者は取材を申し込むため勇躍、その店内に乗り込んでいった。

 

「いらっしゃいませ・・・!!」

応対に出てきたのはくだんの黒服の男。近寄って見れば支配人らしき風格も漂わせていた。

著名な新聞社の名刺を誇らしげに手渡し、手短に来意を告げる。

と。

「私ども、そのようなお申し出はお受けできません」

との返答。

「なぜですか? 必要なヵ所は匿名にしますし、利用者の方の同意も取ってから記事に・・・」

「それでも、そのようなお申し出はお受けできません」

40の半ばを過ぎたくらいか、黒服の男は物腰こそ柔らかだったが態度は頑なだった。

記者がいくたび言葉を重ねても目尻の皺は微動だにせず、笑顔のまま固辞を繰り返す。

そして記者は言ってしまった。

「でも宣伝になるじゃないですか・・・?」

 

黒服の眼が一転、底光りした。

渡世の垢と切り立った人生をふつふつと匂わせる『侠』の顔に変わる。

ギシッと椅子を鳴らしテーブルに両肘をつくと、

眼球がぶつかりそうなほど顔を寄せ、黒服は低くうめいた。


「裏の世界には裏の世界なりのプライドってものがありましてね。
 そりゃあ『決して表の世界には出ない』ってプライドなんですよ。
 だから手前どもは『お断りします』と言ってるんで、お客さん。
 ・・・ところで遊んで行かないのならもう帰ってくれませんかね?
 それともウチに何かアヤ付けようってことっすか・・・」


記者の背中に鳥肌が立った。全身が冷える。

黒服の眼の底には『命の遣り取りが日常茶飯』を思わせる炎が揺らめいていた。

「・・・遊んでいきます」

そう、答えるのがやっとだった。

「はいっ、ご案内!! いいコ、付けますよお客様。若くてピッチピチの当店No.1!!!」

黒服の目尻がまた柔和に戻る。記者は所定のサービスを受けて、店を後にした。

付いてくれた泡姫は「筋者の情婦から逃げ出してきたの」と明るく語った。


とぼとぼと歩く帰途、記者は虚脱した脳で考える。

過去のくびきに引きずられる者、現在に眼を背けて生きる者、未来を拒否してあえぐ者。

ああした業種で日銭を稼ぐ者は、べっとりと可憐に汚れている。

さまざまな「生」が寄り集まって呼吸を補助しあっており、

それを炙り出すことはけしてマスコミの使命ではない、ということを。

 

『裏の世界には裏の世界のプライドがある』・・・。

そのセリフは今も記者の胸に刻まれている。

彼の眼には、このところのテレビ画面にはどうも、

裏の世界を裏切った卑しい顔ばかり映っているように見える。

 


 ・・・15年ほど先輩の記者さんから聞いた話です。 
 裏の世界のほうがよっぽど「弱者に優しい」のかもしれません。 
    もちろん、弱者につけこむ「福祉ゴロ」も山ほどいるのですがね、裏社会。   neo_vital

 

 コピーライター・作家・元週刊誌記者

アングラ文化評論家 行政評論家 江古田潤